軍艦島、そして父の思い出
あれはたしか昭和27、28年(1952、53年)私が小学4、5年生の頃だった?
今逆算すると、その頃 44、45歳だった父に連れられて長崎港外の離島、
炭鉱の島、高島 へ行った時の話、、、、、
子供の私がどうしてそんな炭鉱へ、、、?
今は亡き父は、その頃 長崎労働基準監督署 に務めていた。たしか、、、
労働事務官、って一見偉そうに聞こえる肩書きだったが、これは、、
各事業所が労働基準法その他、労働関係法令を遵守して事業を行なう様、
指導監督する仕事だった!、、と私が後年 成人した後に理解したが、、。
まぁ~早い話、その頃の父は一介の地方公務員だった、って事!^_^)
その父が、業務で長崎市内の各事業所を出張訪問する時、、、
何故か? 時々 私を連れて行ってくれた事を今でも覚えている。
何故 子供の私を連れて行ったのか?それは今考えても良く分からない?
社会勉強のつもりだったのかな~? そしてあの日も、、、
父に連れられて、長崎港外にある高島まで小さな船で渡って 高島炭鉱 へ
行った時、海底炭鉱の坑道に入った記憶はないが、窓ガラスが石炭の煤で
真っ黒に汚れた現場事務所の様な所で、父と炭鉱の人が何やら話していた
のは今でもうっすらと覚えている。
そして帰路、高島よりちょっと沖合いにある 端島 をぐるりと巡回したのち、
長崎港まで戻った。今考えたら、あの時 何故船はわざわざ端島を巡回
したのだろう! 父が私に島の全景を見せたかったのだろうか?
端島 は長崎港から南西の海上約 17.5km の位置にある。初めは小さな瀬
であったが、埋め立てて人口島となった。
旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた 高島 の南端からは南西に
約 2.5km の距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約 4.5km離れている。
長崎港の沖合に浮かぶ周囲1200mの小さな 高島 は1890年に三菱の所有
になり、また 端島 は石炭の供給地として発展をとげ、1974年に閉山する
までずっと 「最高級炭」 を産出し、戦後も日本経済を支えた。
←この写真はネットから無断借用したものだけど、
あの時 私が見た 端島 は、確かこんな感じだった?
、、、と? うっすらと記憶している!
端島 の事を当時から 軍艦島 と呼んでたのは長崎市内の人だったら、
誰でも知っている。
それは当時、この小さな島には高層ビルが
立ち並び、島周囲もセメントで固められていて、
眺める角度によっては、まるで軍艦が浮いてる
様に見えたから!
それはともかく、、、
先日、その高島炭鉱近くの端島(はしま)と云う、今では小さな無人島、、、
通称、軍艦島(ぐんかんじま)が、「明治日本の産業革命遺産」 として、、
福岡の八幡製鉄所などと一緒に世界文化遺産に登録された。
世界遺産登録を目指していた地元の関係者は一斉に喜んでいるが!?
※ 実はこれには当初から韓国がイチャモンを付けていた。
即ち、炭鉱で働く労働者の中には朝鮮人を強制労働させていた、、、と!
従って、世界遺産には相応しくない、、、と! スッタモンダ、、、!
そして結果的には、、、
我が外務省が、強制労働 と云う文言は入れない、しかし朝鮮人が
本人の意思に反して働かされた、との文言を入れる事、、、で一件落着。
何の事はない、、、案の定、韓国は実質的には外交的勝利だ、と喝采!
そのとおりッ! 日本の外交的敗北だった! まさに弱腰害務省!
しかし私も本当のところを知りたくて、長崎のいろんな先輩の話を聴い
たり、資料を読んだりしたが、、、、
確かに戦時中は 徴用労働者 として一部強制的な労働も有った様だが?
当時は生活苦の日本人をはじめ、大勢の在日朝鮮人や中国人の中にも
一部の人達は自主的に危険な炭鉱労働者となって働いていたのも事実
らしい。
それは高額な手当てを稼ぐのが目的だったから、、、!
朝鮮人達は、それで得た賃金の大半を本国の身内などに送金していた、
、と云う話も聞いた事が有る。
◎高島、端島の話に限らず、、、
彼らが云う、日本では戦前から戦後にかけて在日朝鮮人は日本人から
何事も強制され、卑しめられ、何かにつけて差別された、、、と!
これについて私が思うに、、、
そんな事は一切無かった、とは云わない、、が、大なり小なり多分
彼らが差別されていたのは事実だろう。それは、、、?
戦後12年も経過した昭和32年(1957年)頃、私が中学生の頃だけど、
その中学校の近くに朝鮮人達がまとまって暮らしていた。
(それは梅中、即ち大浦の梅ヶ崎中学校。)
その近辺は子供心にも何となく近寄りがたい雰囲気だった事を今でも、
ハッキリ覚えている。
つまりお世辞にも綺麗ではなかったその地区一帯、そして彼ら朝鮮人の
大人も子供も、私たち日本人を見る目が鋭く、挑発的に見えて恐かった
事もハッキリ覚えている。 そんな中、、、
こちらも無意識の内に密かに差別(区別)の心が芽生えていた様だ?!
彼ら朝鮮人達の当時の主な職業は、古鉄を集め、それを売買する地金屋
だった。同級生の中には、そんな朝鮮人地金屋の子供もいた。
今これを書きながら、今頃彼らは、何処で何をして居るだろうか~、、、?
などと思い出している。
在日の中には日本で財を成した人が居るのも事実!
そんな人は、日本と云う外地で艱難辛苦して成功した結果、少なくとも
大っぴらに日本の悪口は云わない、、、これって何をか云わんや!
いつの時代でも、どんな国でも、自分が生まれ育った祖国以外の外国に
住んだ場合、多少は差別されたり、不便な目に合う事は当たり前なのだ。
それは仕方ない事だろう! (私の海外4ヶ国在住経験で!)
、、、ましてや戦前戦中、そして戦後の混乱期には言わずもがな!
今年 2月に帰郷した時、、、この 今話題の軍艦島 へ渡って見たかった
が、あいにく雨風で荒れ模様の悪天候だったので、行くのを断念した事が
今となっては返す返すも残念無念!
そしてもし今、父が生きていたら今こそ聞いてみたい、、、!
『オヤジよ! 僕が小学生の頃連れて行ってくれた高島(端島)炭鉱では、
もう戦後7、8年経ってたので朝鮮人 労働者は居なかっただろうね?
、、、戦時中、強制労働は有ったの? 彼らはその後どうなったの?」、と!
◎※印に関する追記と考察。
当該施設に関連し、日本政府の公式見解では、、、
「(徴用は)国際労働機関(ILO)の強制労働条約で禁じられている
強制労働にはあたらない」 1850~1910年に於いては、徴用令による
徴用は一人も存在せず、ここで働いていた朝鮮人は全員が自由意志
で働きに来ていた、、、としていた。
それでは1940年代(第二次世界大戦)の頃はどうだったのか?、、
、との疑問が残るが、その場合でも、、、
「徴用労働は国際法上、強制労働には当たらない」、、となるらしい!
また、別の云い方をすれば、当時の朝鮮人は“日本人”とされてたので、
法律上は 「戦時徴用で国家の為に尽力した日本人」、、、ともなる。
100歩譲って韓国の言い分を認めたとしても、1965年6月22日の
日韓基本条約 の締結で、全ての問題点は完結済み!、、、となる。
◎参考資料
「軍艦島」(写真家中村由信氏撮影:当時の島民の生活感満載です)
端島(長崎県)(Wikipedia)
軍艦島アーカイブ(西日本新聞社)
在日韓国・朝鮮人(Wikipedia)
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