フォト
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

Face Book

何でも掲示板です↓

“趣味の音楽関連”

無料ブログはココログ

« 広島“原爆の日” | トップページ | 捏造! 従軍慰安婦 »

2014年8月 9日 (土)

長崎“原爆の日”

今日8月9日は先日の広島に続いて、長崎の『原爆の日』、、、
午前11時2分、黙祷!
Urakamitenshudojan1946_2

今から69年前、第二次世界大戦末期の昭和20年 (1945年) 8月9日早朝、
太平洋の北マリアナ諸島、サイパン島から約8キロメートルの距離に
あるテニアン島。ここで米軍の戦略爆撃機B29、通称“ボックスカー”に、
乗務員10名の他、レーダーモニター要員や、原爆投下を担当する3名の
将校達が搭乗、そして出発!

原爆投下の目標地点は北九州の小倉。
硫黄島上空を経て、同日午前7時45分に屋久島上空の合流地点で2機
編隊を組み、午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空
へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ
到達。

しかし、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために、目視による
投下目標確認が出来ず、、、。
この頃小倉では、6日の広島への原爆投下の情報、
(当時この時点ではまだ“原爆”とは知らなかった、と思うけど?)を聞いた
八幡製鉄所の従業員が少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、
新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」、と
証言していた事が後に判明!

“ボックスカー”は煙で目標確認が出来なかった為に、やむなくその後、
別ルートで爆撃航程を変更して3回 もトライするが、いずれも黙視確認に
失敗! この間およそ45分間が経過していた。

この為、“ボックスカー”は残燃料に余裕が無くなる、他にもトラブルも
発生、結局、予備燃料に切り替えた。
その間にも天候が悪化、日本軍の高射砲による対空攻撃が激しくなり、
また、陸軍芦屋飛行場や、海軍築城基地からゼロ戦(零式艦上戦闘機)
10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から
第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を
離脱。

同10時50分頃、長崎市は高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で
覆われていた。
長崎での原爆投下目標は、彼の有名な巨大戦艦 “武蔵” を造った、
三菱長崎造船所 だった?(、と後で聞いたが)、そこより北寄りの地点
(浦上地区)が雲の切れ間から一瞬だけ眼下に垣間見えた。
あぁ~! この時、雲が切れなかったら! これも運命のイタズラか?
(長崎では何故広島の時の様に、煙幕を張らなかったのだろうか??)

“ボックスカー” は、長崎市上空高度9,000mから核爆弾ファットマンを
手動投下。ファットマンは放物線を描きながら落下、、、、!
約1分後の午前11時2分、長崎市中心部から約3km離れた浦上地区の
上空、高度 503mで炸裂。具体的な場所は長崎市松山町171番地だった。

原爆はわずか0.2秒後には半径200mもの巨大な火球を作った!
火球の表面温度は太陽の表面温度並の8000度にも達した!

                                                                 

                                                              この瞬間、長崎の空一面が白く輝き、時計の針が11時2分で止まった!
640pxnagasakibomb青空に噴き上げる巨大なきのこ雲、、なにが起きたのか?
この火球のエネルギーはその大半が爆風となって
長崎市を壊滅。




479pxcatholic_cathedral_in_nagasaki←崩れ落ちた壮麗な浦上天主堂の残骸。
後日、キリスト教(プロテスタント)のアメリカは、この教会の
惨状をどう見たのか?
同じキリスト教でもカトリック教会だから構わない、、、?
とでも思ったのか? まさかッ!



この教会や爆心地間近に居た人は、一瞬のうちに焼け焦げ、
無残にも灰になってしまった。残ったのはその影だけ! 
この瞬間、長崎市民 7万人以上の人が即死!


即死を辛うじて逃れた人も、全身大やけどの為、水を求めて近くを流れて
いる浦上川 に次々と飛び込み、、、そして死に至った!
周囲に広がる阿鼻叫喚、文字どおり生き地獄だった!

800pxnagasakiurakami←荒野状態の浦上天主堂付近




800pxnagasaki_temple_destroyed←破壊された寺院と仏像。
(原爆投下6週間後の1945年9月24日撮影)



Victim_of_atomic_bomb_of_nagasaki_0←大村海軍病院にて。全身に大火傷を負った14歳の
少女、、、そばの看護婦も負傷している。

殆どの直接被爆者が受けた火傷は、全身の皮膚表面だけでなく、その内臓までも焼け爛れていたらしい!

私が後日、大人になって知った事だけど、、、
原爆で大火傷を負った人は、その時は辛うじて生きてても
後で、そのやけど跡に蛆虫が湧いて、それを家族が割り箸を使って
懸命に取り払っていたらしい!

当時3歳だった私はその日何をしていたのか憶えていない。
かすかに記憶が有るのは、イヤ小さい時から祖母や母から何十回と
聞かされてきたその時の話が私の頭に焼き付き、それがあたかも
自分の記憶であったような気もする。それは、、、、、


当日、私は家の中に居て 『ドーンッ!』、と大きな鈍い音と障子越しに
見えた閃光? 傍にいた祖母が昼ごはんの準備をしながら
『今ん稲光はなんね~?』、
『こげん良か天気に雷とは違うわね?何んやろか~?』、、、
そんな事を呟きながら祖母は幼かった私を連れて、今日の様にセミが
鳴いている裏山に登ったら、、、、、


長崎港の奥、市の北側方面、遥か遠く浦上方面から妙な形の真っ黒な
入道雲? みたいなものが上っているのを見た!
イヤ見たような気がする?何故かそこだけが微かに頭に焼き付いている。
当時母は勤めに出ていた。そして父は遠く外地、、、。

(当時、私の家は長崎市の南側、ひと山向こうに住んでいたから、
直接被爆を受けずに済んだ、、、と後日祖母が語っていたのを思い出す。)



当時、広島でもそうだったが、長崎の市民たちは、自分の直ぐ近くに落ちた
爆弾でやられた? と思った様子だったが、しかし後日、たった一発の爆弾
で、すごく広い範囲がやられている事を知って驚愕!

 
原爆投下直後は、原爆はおろか放射能の事も知らない市民達がお互いに
助け合う。大勢の救援隊が強い放射能の残る焼け跡を歩き回って、、、
彼らもまた放射能障害によって後日命を落とすことになる。

数日後になって市民達は「今度の爆弾は直接やられてなくても、
爆破された跡を歩いただけでもやられてしまう?」、と初めて知った!

以上、Wikipedia 長崎市への原子爆弾投下」長崎・平和 原爆資料館
より抜粋編集。


当時の長崎市の人口は約24万人。瞬間的直接爆死7万人強、、、
時間を経てからの二次被爆死、三次被爆死、その後、長崎市内外と
それ以外の土地から長崎に来た人達などの被爆、全て合わせて
約15万人以上の人々が亡くなったのだ!
そして、建物は市内の約36%が全焼または全半壊。

(爆死とは原爆の熱線や爆風で直接的に身体に損傷を受けた者、
被爆死とはいわゆる放射能被爆が原因で死亡した者。)
また直接間接被爆以外、例えば母親の胎内での被爆などによる放射能
二次、三次被爆、つまり白血病、癌などでの死者はこの69年間毎年、、、
今なお続いている。


◎そして今日、、、

先ほど終わった長崎原爆記念式典の様子、平和記念像をバックに
「千羽鶴」 (2年前のYouTubeだけど) を唄う女子高生、そして平和宣言を
する長崎市長!
Photo_2



参考までに当時の写真などが豊富な ナガサキの原爆惨禍
  ご覧下さい。またこの中に出て来る 如己堂 の永井博士のお話、、、!
   これをテーマにした歌曲 『長崎の鐘』 のYou Tube もご覧あれ!

◎以下、以前書いた関連記事も是非ご覧下さい。
2011年 8月  8日記 8月9日、、午前11時2分
2011年 8月10日記 書き込みに寄せて!
2012年 8月  9日記 8月9日,午前11時2分 
2012年 8月21日記 因果応報Ⅰ、Ⅱ
2012年11月 8日記 昔の日本人は?(最終回) 
2013年 3月10日記 あれから二年? 
2013年 4月11日記 第三の火 
2013年 8月 9日記 長崎 原爆投下から68年 
2013年 8月15日記 あの終戦から68年 
2014年 2月17日記 元首相のやるべき事
2014年 8月  6日記 広島“原爆の日”

コメントを見たり、書いたりは こちら からどうぞ!

« 広島“原爆の日” | トップページ | 捏造! 従軍慰安婦 »