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2012年11月 4日 (日)

昔の日本人は、、、?(3)

「昔の日本人は、こんなではなかったのでは?(3)」

今とは違って昔の日本人が持ってた良いところ、外国人の目から見た日本人の良いところ、、、などなど拾い集めた特集の第三弾です!

以下、黒字 は参考資料からの引用、青字 は拙コメント。 

■ヴェンセスラウ・D・モラエス、ポルトガル人、作家。海軍で世界各国を訪れたあと1889年(明治22年)来日。

日本に魅せられ自国籍を返上して日本に帰化、1929年に亡くなるまで一度も故国を訪ねる事はなかった。日露戦争で東洋をロシアから守った日本を軍国主義と批判する欧米に対して、 それなら植民地を持っている国家はすべて軍国主義 であると反論した。

注:ロシアから守られたのはアジアだけではなかった、日露戦争のおかげでロシアの支配体制から抜け出ることができたトルコ、ポーランド、フィンランド、スェーデン、ポルトガル等の北欧、東欧諸国はその影響で今でも親日の国が多い。またフィンランドには、1992年(平成4年)まで、世界各国の提督の肖像をラベルにしたアミラーリ(提督)ビールがあり、日本は東郷提督になっていた。】

【太平洋戦争またしかり! 日本は敗戦したが、結果的にはインドや東南アジア諸国での米英仏蘭の長年の植民地支配を終わらせた! だから これらの国々はシナやチョンのような反日ではない、親日なのだ!


■1890年(明治23年)に来航したトルコのエルトゥールル号の遭難者を日本人が救助した際、その事後措置を手厚く行った事がトルコでは、何と現在でも語り継がれている。「日本の国民性は偉大」 122年前の遭難事故救助にトルコ人が感謝。

トルコ・アクデニズ大のイスラフィル・クルトジェフェ学長(54)らが25日、和歌山県串本町を訪れ、122年前の遭難事故で580人以上の乗組員が犠牲となったオスマントルコの軍艦「エルトゥールル号」の慰霊碑に献花した。

以下、クルトジェフェ学長 「2つの国、ずっと家族だ」より、、、
アクデニズ大の関係者は、学術提携している千葉大との交流のため21日に来日。オスマン史の研究を専門にしているクルトジェフェ学長が、遭難事故で地元住民が献身的な救助活動をした同町を訪問したいと希望したという。

一行はクルトジェフェ学長夫妻や大学関係者ら7人。慰霊碑に献花し、遭難事故の犠牲者に祈りをささげた。このあと、住民が乗組員を救助したことを伝える町立トルコ記念館などを見学した。

クルトジェフェ学長は 「私たちの国の祖先を救助した日本の国民性は偉大だ。日本とトルコの間には家族のような関係が築かれている。この場に来て大変感動している」 と話した。

HP 「今日の独り言」 2007年1月11日 記 より、、、
イスラム教と云えばパレスチナやアラブ諸国、イラン・イラクぐらいしか思い出さないが、実は大昔はトルコがその盟主だった?
今朝のasahi.comサイエンス欄に載ってた小さな記事、「120年前に沈没のトルコ軍艦調査開始」 を読んで興味が湧いたのでNetでいろいろ調べてみた、、、明治初期に当時のオスマントルコが日本に親善派遣した木造軍艦が、帰路に和歌山沖で台風に遭遇、座礁爆発沈没し乗組員500人以上が遭難死亡、助かったのは僅か60数名だったとか。

その時、和歌山の遭難現場付近の地域住民が献身的に救援活動に当たり、時の明治政府も全面的に支援したとか。それが今でも美談として言い伝えられている。トルコが親日的なのはこれが主な理由とか?
また現地には立派な慰霊碑も建ってるとか。こんな話は知らなかった。

事件の背景をいろいろ調べてみると、これがまた大変面白かった!
元々トルコはイスラムの盟主オスマントルコ帝国として今の東欧や北アフリカ、地中海沿岸など広大な地域を支配していたが、1800年代頃から衰退の一途を辿って、結局現在のトルコ共和国になる。そんな中、帝国最後の頃に発生したこの事件の意味は、単なる海難事故を通り越してトルコと云うあまり親しみがない国の歴史も知れて面白かった。
それにしてもトルコは今では同じイスラム教国の中でも影が薄いな~!】



■小泉八雲(P・ラフカディオ・ハーン)、アイルランド人、新聞記者、小説家
1890年(明治23年)に来日して、その後日本に帰化した。

「知られざる日本の面影(日本瞥見記)」より、、、
将来まさに来ようとしている変革が、この国の道義上の衰退をまねくことは避けがたいように思われる。西欧諸国を相手にして、産業の上で大きな競争をしなければならないということになれば、結局日本はあらゆる悪徳を自然に育成していかなければなるまい。

昔の日本が、今よりもどんなに輝かしいどんなに美しい世界に見えたかを、日本は思い出すであろう。古風な忍耐と自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰 のもつ深い人間的な詩情。日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。

【これは正に小泉八雲の予言 だ! 明治時代に早くも彼が指摘した日本の未来、即ち現代日本の悲しむべき姿、、、それが見事に的中している?


■ハーバート・G・ポンティング、イギリス人、写真家。1901年(明治34年)来日、日露戦争にも従軍。

「英国人写真家の見た明治日本」より、、、
日本兵はロシア兵捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、
その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた 感動的な場面であった。

松山ではロシア兵たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。何人かの勇士は病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。

ロシア兵は過去のすべての歴史において、これほど 親切で寛大な敵 に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど 気高く優しい 役割を演じたことはなかったのではあるまいか。

【正に司馬遼の“坂の上の雲” を思い出させるな~! 日本人ここにあり!】


■アルジャーノン・B・F・ミットフォード、英国公使館の書記官。
1866年(慶応2年)来日。1906年(明治39年)にガーター勲章使節団として33年ぶりに3度目の来日。

その時の「ミットフォード日本日記」より、、、
東郷提督、黒木大将らの 謙遜と自制心 はまさに人々の心をとらえるものがあった。両者ともに誇らしげな様子は全く見られなかった。私が強調しておきたいのは、私の日本滞在中にいろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を一度も耳にしなかったことである。

戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、全く 自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが日本の人々の目立った特徴 であり、それは全世界の人々の模範となるものであった。

このような 謙譲の精神 をもって、かかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない。

【日本人の 謙遜の心 は、外人共には決して理解できない! 何故ならば彼らにはそれが 自己否定 としか映らないからだ!】


■ロマノ・ヴルピッタ、イタリア人、ローマ大学法学部卒。
東京大学に留学、駐日イタリア大使館一等書記官、ナポリ東洋大学大学院現代日本文学担当教授、1975年(昭和50年)欧州共同体委員会駐日代表部次席代表、後に京都産業大学経営学部教授。

1910年(明治43年)に起きた第六号潜水艇の海水侵入事故について。

引き揚げられた潜水艇の中で、乗組員皆が取り乱すことなく 自分の役目を最後の最後まで果たしながら亡くなっていた。これは世界の驚きだったわけですが
(注:当時、外国の海軍に同様の事故があり、乗組員の醜態が世間に知られていたから)、
大事なことは彼らが別に 英雄を目指したわけでも何でもない ということです。そこに、日本人の根本的な美しさがある。日本は何を外国に発信すべきか。私はそうした能動的な姿勢がことさら必要とは思わない。当たり前のこと、つまり日本人として 本質を追求して立派な日本人として当たり前に振る舞う。それでいいのだと思うのです。それが世界のモデルになる。

【軍人が緊急時に命惜しさに取り乱すとか、或いはたとえ一般人であっても日本人、特に “男は恥ずかしかこつせんばい!”(宮崎康平 著 「まぼろしの邪馬台国」より)】

■この第六号潜水艇の事故についての当時1910年の「英紙、グローブ」の記事。
「この事件は、日本人は 体力的に勇敢であるだけでなく、精神的にも勇敢 であることを証明している。このような事は世界に類を見ない。」

また、潜水艇と言えば、1942年(昭和17年)5月31日、オーストラリアのシドニー湾に停泊中の米軍大型艦船6隻からなる艦隊に、小さな特殊潜航艇3隻に依る奇襲攻撃が敢行された。3隻とも自爆あるいは沈没をしたのだが、彼らの勇気と愛国心に感銘を受けた。

当時のオーストラリア海軍シドニー要港司令官、ムーアヘッド・グルード少尉は、我が国にこれらの勇士の千分の一の覚悟でも持てる人が何人いるだろうか、と自国の船1隻と19名の海軍兵を失う被害にあったにも関わらず
(まして白豪主義のかの国で)、周りの反対を押し切り、自決した敵国の松尾敬宇大尉ら4名の遺体を引き上げ棺を日本国旗で包んで、スイス総領事らも参列し最高位の海軍葬で丁重に弔った。

この模様は、ラジオで放送され、オーストラリア全土で感動を呼んだという。
そして、4名の遺骨は戦時交換船を通して日本に送り届けられた。この時の特殊潜航艇は、後の回天とは違い特攻用に設計された物ではなかったが、この任務の内容は、生還することが不可能なものであった。松尾大尉は自ら志願し、遺書を遺して出撃した。

【日本人、特に当時の軍人は一部の不届き者を除いて、いわゆる大和魂、武士道精神の持ち主だった。即ち神風特攻など自己犠牲で国を守る気概 は外人共には決して理解できない!】

◎以上、このシリーズはまだ続きます!

◎参考資料:
*「国民の歴史」(西尾幹二 著)
*「戦後歴史の真実」(前野 徹 著)
*その他の手持ちの本など。
*正統史観年表
*「勝者の書いた歴史は真実か?」
*「ぼやきくっくり」

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